|
私は非常に悩んでいた。 そわそわしている、とも言い換えられるかもしれない。 もう若くもないし、ましてや女性という訳でもないのに。 この、日が経つ毎に大きくなる悩みの原因は、わたしの恋人である火村英生、すべてこいつのせいだった。 love so sweet 日に日に私への視線が強くなっているのに気が付いていた。その奥にギラギラとした希望いや、もはや欲望に近いものが 含まれているのがはっきりと分かっていた。 普段なんか私にちっとも心中を見させたりしないくせに!だ。 しかもこの前なんか私の家に来た時など、「俺はビターの方が好きだな・・」なんて呟いたのだ! 私が締め切りを間近に必死になっている横で! おかげで狼狽えてしまって、文法が変だったり漢字を間違えたりと、その原稿の出来は悲惨だった。片桐から「有栖川さん・・・ この、えろすくお願いします。っていうのは、宜しくお願いします。で良いんですよね?」という内容の電話が十回は掛かってきた程だ。 そんなこんなで、火村からのギンギラギンにさり気ない攻撃に耐え忍ぶ事一週間。そうこうしている間にバレンタインデーは来てしまった。 締め切りが終わりホッとして、今日は眠りに付く筈だった私は意に反して起きてしまったのだ。 時計を見ると、一時半を指している。思ったより寝てないわりには頭はいつもより冴えていた。 リビングに出ると、火村からの書置きがあった。どうやら今日は仕事が早く終わるので六時頃に此処へ来るという事だった。 終わる、のではなく終わらせる、の間違いやないか・・と口に出さずに思う。 あいつはあれでいて顔が良いから、今日なんかは女生徒からのアタックが激しいんだろう。毎年バレンタインデーになると 無理やり早引けをしていた事を思い出した。 テレビを付ければ、『バレンタインデーキス』というフレーズが、明るく華やかな画面と共に流れている。 可愛らしい女の子達がチョコを選んでいる様子を見ながら私は食卓につき、作り置きの冷えた朝食をつついた。 そうして火村を思い出して、私はまた、チョコレートか…とため息をつくのだ。 悩むのも当然の事と理解して欲しい。 私は三十も超えてしまったおっさんであり、しかも渡すのは同性なのだから。唯一救われるところは、恋人同士、というところだろうか。 それも救われるところかどうかは怪しいが。 とにかく、この歳になって初めてのチョコ作りというのは、男としてのプライドが中々許してくれるものでもないのだ。 『グダグダ言ってないでさっさっと作っちゃいなさいよ』 吃驚してテレビを見る。声はテレビから聞こえていた。画面には、悩める子羊。そして親友。よくある構図だ。 そう思って、チャンネルを別の番組に切り替える…筈だった。 普段ならば。 しかし、ついその女の子に共感してしまった私は、頭の中で『こんなんよくあるドラマやないか。別に見たないんやけど、 リモコン取るのがダルいんや!』と誰に言うでも無い言い訳を言いながら、遂に目が離せなかった。 『でも…恥ずかしいし…』 そや!めちゃめちゃ恥ずかしいんや! 『じゃあ、孝君に渡さないの?そんなんでいいのっ!?』 うっ!親友め手厳しいな! そして画面は回想シーン。意中の彼らしき人が写る。 そいつはなんだか、火村に似ている気がした。 原稿を終わらせる為、ワープロ相手に必死になっていた私が、かろうじて横目で見た、仄かに赤い火村の横顔を思い出す。 「俺は、ビターの方が好きだな。」 普段は滅多にそんな事も言わないし、赤くなったりもしないのに。 卑怯だ。 昨日の新聞にチョコレートのレシピが載っていたのを思い出す。 材料にカカオ70%位のチョコレートと書いてあったので、 これなら火村も大丈夫なんじゃないかと思った事が印象に残っていた。 それを掘り出し、材料をメモする。 善は急げ。私はスーパーへ走っていった。 「あれ?有栖川さんじゃないですか。」 そう私に話かけてきたのは片桐さんだった。私はチョコをカゴに入れ、これから生クリームや無塩バターやらを取りに行く為に 野菜コーナーを通り過ぎようとしていたところだった。 「奇遇ですね。僕もちょうど近くに来てたんで、何か買って帰ろうと思ったんですよ。」 片桐はそう言いながら大根を手に取った。 「何や。主婦じみてるなぁ。」 私がからかう様に言うと、片桐は快活そうに笑った。 「ははは!健康にはちゃんと気を使わないと。そう言う有栖川さんは…あれ?チョコですか?」 「えっ!!あ…ああ。これですか。えっと、カレーでも作ろうと思て…隠し味に苦いチョコ入れると良いって聞いたんで。はは…」 嘘はついてない。 これはこの前聞いた話だし、実際試してみようとも思ってたのだ。 「主婦じみてるのはどっちですか」 「あ、あははー」 成り行きで人参やらじゃがいもやらをカゴに入れた。ついでだから後で火村にカレーを作って貰おうと思っていると、 片桐は、お先に。と言ってレジへ向かって行く。ほっと一息つき、私はルーと豚肉、そして生クリーム等を無事調達した。 ***** 早引けしてアリスの家に着いたのが6時5分。 ドアを開けると、チョコの香りがむわっと火村の鼻を襲った。 部屋は薄暗い。 スイッチを押すと、パチッという軽い音と共に灯りがついた。見るとそこには残骸。 台所にはチョコのこびりついた ボウルや泡立て器が放置されたまま 甘い匂いを放っていた。 電気もつけずにどうしたんだか、とリビングを覗くとソファに丸く寝転がって、これまた甘い匂いを放つ物体。 机の上には、ラム酒の瓶とグラスがある。そして紙類が散らばっている。 夕飯の材料が入ったスーパーの袋を台所に置き、冷蔵庫を覗くと、締め切り直後の割には珍しく野菜やカレーのルーが入っていた。 そして、タッパー。 火村は、入った直後から確信はしていたが、本当にこんな事があるのかどうか、信じきれなかった。 シチュエーションは違えど、こういった内容の夢は最近だけでも5回は見ている。それに、もしかしたら、 万が一、他の人宛かも知れないとも思った。万が一、だが。 そうだった時の絶望に耐える心の準備を持ってアリスの所まで行った。 リビングで呑気に寝ているアリス。 襲うぞ、コラ。 そう思ってみてもアリスは気づかず、実に気持ち良さそうに眠っている。 どうせ料理に使ったノリでラム酒をちびちびやって、そして寝てしまったに違いない。 火村は小さくため息をついた後、机の上を片付けようとした。 はた、と手がとまる。 資料だと思っていたものは、どうやら新聞の切り抜きだったようだ。 それには、大きくガナッシュの作り方、と書いてある。そして材料の欄に書いてある、ビターチョコのところに赤で大きな丸がついていた。 ここまでされては、流石に他の人宛という事は無いだろう。一応頬を抓ってみたが、痛い。 そしてふと、ガナッシュという言葉の意味を思い出す。 間抜け。 うっかり生クリームを入れてしまったパティシエ。「間抜け!」そう怒鳴られた時には、まさかそれがこんなに 人気になるとは思わなかっただろう。 世の中どうなるか分からないものだ。 けれど、それが自分にも、そして後ろで寝ているヤツにも当てはまる気がする。 こんなに気の抜けたバレンタインデー。しかし予想の出来ないそこが良いのかも知れない。 内心の喜びを少し滲ませながらも、しょうがないという態度で台所へ向かった。珍しく揃っている材料に目を丸くする。 仕方ない、今日はカレーにしよう。 あいつのご飯はハート型に盛ってやる。 きっと『恥ずかしいやっちゃな。母の日か』と笑うだろう。 恥ずかしがりながらもアリスが渡してくれたガナッシュはとても甘かった。おかしいなぁ、とアリスは首を傾げていたが、 俺には当然の事のように思えた。 苦いおっさん同士でも愛はこんなに甘い。なら、チョコが甘くなってもおかしくないだろう。 07/02/14 |